本書では、リースマンによる「自己の形は社会に応じて変化するものである」という多元的自己の考えから、平野啓一郎による「自己とは様々な他人との関係の中ではじめて成り立つ」「関係の相手や関係の内容が変化すれば、自己も変化せざるを得ない」といったやり取りする相手によって自分の顔を使い分ける「分人」的な考えへと変化したアイデンティティ論の道筋を描き出すことを第一章で述べている。

第ニ章では、商品の重心が、「自然な」欲求の充足という機能から、他者とのコミュニケーションを媒体する記号としての消費社会へ移っていった過程で、人々が自分自身のアイデンティティを対象化する方法が変化したことを述べている。消費と自分が結びつくことで、ほんとうの自分を手軽に形成すると同時に、いかなる「ほんとうの自分」も結局は一つの虚構であるという感覚がもたらされた。

第三章では、児童・生徒の選択の幅をそれぞれの自由意志によって広げるべきではないかという提言と、それに反対する文教族との折衷案として「個性重視の原則」が採用された学校教育の場について述べている。「個性」という言葉が導入された事により「自由」の概念が個性の尊重と読み替えられる事となったり、また学校から労働市場への移行過程においても従来の就職指導の機能失調を埋める形で浸透された。

第四章では、若者のアイデンティティを語る際の欠かせない存在であるオタクの輪郭が研究者の語りの中で限りなく曖昧化するという変化が確認されている。1990年代前半にはつつましい自分の場所(=殻)を守るのに必死、コミュニケーション能力が欠如している、という点がマスメディアによってある種の誇張を受けていたが、旺盛な消費者としての再発見を機に彼らのイメージは書き換えられた。

第五章では、若者全般の主にコミュニケーションの取り方に関する変化へと向けられた大人の視線のあり方が変化していく原因について述べている。若者の人間関係がいつの時代にも「希薄化している」と語られるのは大人の側の視線のあり方が様々な事情で変化しているのと同様に若者の変化がある文脈において「希薄化」しているように見えてしまうからだと考えられる。

第六章では、1980年代以降の若者の友人関係が状況によって切り替わっていく「状況志向」的になり人間関係と自己とが表裏一体で多元化したという変化が起こったこと、その「状況志向」的な振る舞いがその場しのぎに見えたり間人主義が「仮面」のようなものを感じさせたりするため、多元化主義は希薄性へと読み替えられてしまう、と述べられている。

第七章では、進行化が進む多元的な自己に対する評価が妥当であるか否か検討して、多くの社会学者の否定的評価を用いてそこに救い出す要素を見出している。多元的な自己のあり方は経済的に生きていく事によって正の意味を持つということ、社会参加や政治参加の観点から否定するのは難しいということ、そして誠実さを出来るだけ損なわず社会を生きていくという意味では倫理的であることを説いている。